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2011年 09月 26日
西濃は(ry
今朝はそろそろ起き上がろうかというころにインターホンがなったので面倒だけど荷物受け取りのため起床。
2日ほど前にAmazonでクリックした書籍が佐川によって運ばれてきました。
ものは見てのとおり、ポール・セローの中国鉄道大旅行というもの。
タイトルどおりの紀行文(ノンフィクション)なんですがこれがまた非常に面白い。
5年以上前に近所の図書館で(市内の他の館から取り寄せて)借りて読んだことがあるんですけれど、何年か前にもう一度借りようと思ったらなぜか見つからなかったという曰くつきの一冊w
他にもいくつか同様の紀行文があるんですが図書館には置いてないし、Amazonでもほとんど取り扱いがありません。
そんなにマイナーな人でもないのにwikiの日本語バージョンにも本人の情報がないという。

ポール・セローの大地中海旅行というノンフィクションもありまして、これは文章の量が多いけれど(たぶん翻訳のよさもあって)全く飽きません。
無人島でもどこでもいいけどどこかに一冊だけ本を持って行く権利が与えられたらこれを選ぶんじゃないでしょうか。
いつぞやの旅行で体験した、フェリーの個室じゃなくてデッキで約24時間すごすというキチガイじみた状況なんかには最適な一冊だと思いますw
あのときはクロアチアの北の端(リエカ)から南の端(ドゥブロブニク)までアドリア海を南下して、バスでサラエボまで往復して、また海路を北上するという謎の行程でしたな。
靴の中が大変な異臭を放っておりまして、ボスニアバスのなかで靴を脱いで乗っていたら運転手に怒られたなんていうこともありました。
こいつはAmazonでは中古が定価越えしているのでもしかすると絶版になったのかも。
巷のベストセラーなんかあほらしくて読んでられないですよ、多分。
フィクションも悪くないけどノンフィクションが面白すぎてちょっと見劣りしちゃいます。
ドラゴンじゃないほうの村上さんのノンフィクション(遠い太鼓とか)なんかもここらに近いふいんきはありますがどっちが好きかと聞かれるとどっちも好きですねw
しかし映画化されたような作品(モスキート・コーストとハーフムーンストリートなど)すらあるにもかかわらず日本語wikiがないというのは実に意外でした。

昨日か一昨日に佐川の下請けじゃないドライバーと話していたんですが、下請けとの色々とかけっこう大変みたいですw
明日は休みだけど激しく無気力なのでレントゲンとか車の点検とかそういうのをやって適当に過ごそうかと思います。
ついでだから電気自動車の試乗でもさせてもらいますかね。
SD14をかばんに入れて徘徊というのもわるくないですがね。時期的に非常に微妙。
何か撮ってこいというミッションが与えられればそれを遂行するのもやぶさかではないくらい暇ですw
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by aohige_the_great | 2011-09-26 23:33 | 旅行記 | Trackback | Comments(2)
2011年 09月 14日
究極の陸送を見せてあげますよ エピローグ
というわけでエピローグ。
数字で振り返る陸送ツアー。

8月15日に納豆号を譲り受けた時の積算距離は9858kmくらいだったとおもう。
そこからガソリンを入れに行って(わずか0.36l。157円/l)満タンにして2日目のスタート時点が9873km。
1回目の給油@足利が10002kmで入れたのが2.01l(152円/l)。
2回目@横川(安中市)が10130kmで2.99l(156円/l)。
3回目@木曽町(魔の木曽高速)が10283kmで3.29l(164円/l)。
一夜明けて4回目@垂井町(店の名前は大垣西)が10400kmで2.80l(156円/l)。
これでツアーそのものは終了。
最後に燃費をはっきりさせるために近所の店で入れた時が10562kmで2.49l(152円/l)。
ということはつまり約700kmで14l弱だからリッターあたり50km!1kmあたり3円!1円あたりだと300m以上!グリコ!
譲り受ける前に「燃費はだいたい40kmくらいですから云々かんぬん」とは聞いてましたが、走りやすいところを(迷いながら50kmくらいは遠回りして)帰って来たのでこの数字が出たんでしょうかね。
レギュラーだともう少しよくなるんだけど今はハイオクとあまり差が無いからなあ。

走行距離は1日目が560kmくらいで午前7時スタートの午後12時フィニッシュくらいだったかな?
2日目は130kmくらいで午前8時スタートの11時帰宅とかそんな感じ。
納豆号は原付(二種)のくせに速いなあ。

他に金を使ったのは出発前のバス代4000円と自賠責保険3年で11520円とご老公に献上の品。
京都駅を出てからは
赤塚PA(豊川市)で買ったペットボトルのお茶、125円。これは空のペットボトルを水筒代わりに使いたかったのもある。
朝の水戸駅で買った納豆系の土産、1390円。
水戸駅のマクドナルドで飲んだカフェラテ、190円。
同じく駅構内で買ったジンジャーエールみたいなの、100円くらいだったか。
もてぎのコレクションホールで買ったASIMOのキーホルダー2個、944円。
ドライバースタンド那珂店で急遽買ったチューブとタイヤレバー、1699円。
田舎のコンビニで買ったMAXコーヒーとガム、185円。
陸送開始後は
深谷のコンビニ(利根川の南側)で買った缶コーヒー、120円。
軽井沢のスーパーで買ったカフェラテとあんぱん、157円。
三才山トンネル通行料、50円。
松本のローソンで小島よしお似から買ったコカコーラ、125円。
道の駅志野・織部で電話しながら飲んでたホットココア、100円。
あと帰宅してからタラ藤さんにお礼の品。
700kmの移動中に500円くらいしか飲み食いその他に使ってないんだからバイク移動は燃費が高いですね。
腹減らないし。
ポロ沼邸を出る前に上記のペットボトルにお茶を満タン補充していただいたんですが、タラ藤邸についてもまだ残ってました。

宿代は夜行バスと押し掛け居候につき無し。ありがとうございました。
南東北めぐりはほとんどまるまるポロ沼さんにお世話になりました。ありがとうございました。ドリームで遊びに来られたら国産大衆車で案内いたしますよ。
車を衝動買いしたので予算的にかなり危ないところでしたが祖チンさんが車輪をお買い上げ。ありがとうございました。
また3年か4年後くらいに同じようなことをやる羽目になるんでしょうか(汗


by aohige_the_great | 2011-09-14 20:42 | 旅行記 | Trackback | Comments(6)
2011年 09月 11日
究極の陸送を見せてあげますよ 見慣れた景色
目が覚めて起き上がったところでタラ藤さんがやってきた。
雨風をしのげるどころかベッドまで与えていただけたのは実にありがたかった。
下の階に降りてテーブルにつくと朝食が運ばれてきた。
昨日の朝、茨城で食べた朝食とよく似たメニューだった。あの朝食を食べたのがたった24時間前というのが信じられないくらい長い一日だった。
納豆がない代わりに味噌汁の味噌がおそらく八丁味噌だったと思う。ところ変われば品変わる、である。
我が家の朝食はいったいどんな風なんだろう。
子息の箸の持ち方にちょっと違和感を覚えたが小学生に色々求めるのは酷な話だ。
少ししてから出勤するタラ藤さんの先導で2日目の行程がスタートした。タラ藤さんはやはりきれいなペダリングだった。
ブーツの中はまだ少し湿っていた。

21号を走り出して程なくしてからこの日最初の、そしておそらく最後になるであろう給油を行った。
値段につられてガソリンスタンドに入ったらそれはカードの価格だったが気にしないことにした。所詮数リットルのことだ。
ここから先は自転車や車で何度か走ったことのある道だった。基本的に一本道でもあり、迷う心配はない。
あっという間に関が原を超え滋賀に入った。
湖岸をクルージングするという選択肢がないわけではなかったがさっさと帰りたかったので国道8号線を選んだ。
何事もなく米原→彦根→近江八幡と南下すると守山までたどり着いた。
ここで琵琶湖大橋を渡るか、そのまま南下して別の橋を渡るかを選ばねばならなかった。
初夏の自転車琵琶湖一周で湖西の、とりわけ琵琶湖大橋以南の、中途半端な栄え方と車の多さに辟易したのでそのまま8号を走った。こちらはこちらで盆休みの渋滞のようなものが私を疲弊させたのだが。
そういえば油断していてエキゾーストパイプに裏腿が接触するということもあった。前日の雨で濡れたズボンの代わりに短パンを穿いたのが裏目に出たわけだ。
さっさと帰るために近江大橋を渡るつもりだったのだが、勘に頼って適当に道を選んでいたらいつの間にか橋が斜め後方にあった。迷走。
仕方なく国道1号線を使って帰ることになってしまった。

そうこうしているうちに峠を越え、京都に入った。ゴールはもうすぐそこ。
あとはごちゃごちゃした都会的雑踏の中を都会的方法で走るだけだった。
車線が多く、車も多く、そして何より暑かった。
昼過ぎに自宅にたどり着いた。本当に長い道のりだった。
荷物を整理してからタラ藤さんに送るお礼の品々を自転車で買いに行った。
やはりこの街には自転車がお似合いだ。

fin

ご拝読ありがとうございました。
エピローグ的なものに続く。

by aohige_the_great | 2011-09-11 22:50 | 旅行記 | Trackback | Comments(2)
2011年 09月 05日
究極の陸送を見せてあげますよ 岐阜の夜
「もしもしタラ藤さん?」
「え?ん?○▲*さんですか?」
「あ、番号変えたの伝えてませんでしたね。バカ口です。」
「おお、どうしたの?」
「今晩いきなり押しかけてもいいですよね。ガレージでも庭でも何でもいいです。」
「いまどこ?」
「えっと、19号から21号に折れてすぐのところにある道の駅。」
「じゃあまだ少しかかりそうだから長良川越えて○個目のガソリンスタンドのところで電話ちょうだい」
「了解。よろしく。チャオ」

そういった内容の電話が終わると私は吸っていたタバコを灰皿にねじ込んで夜の21号を再び走った。
7年前の自転車、3年前のバイクで走ったときの記憶がわずかばかり残っていたので、夜であっても自分が正しい道をたどっているのかどうかだけは理解できた。
こういうときに写真というのは実に役に立つ。残像として景色が脳裏に焼き付けられるのだ。
日本ラインとも称される木曽川沿いではどこで写真を撮ったのかまで思い出したくらいだった。
しばらく1車線の区間を走るとどこかの時点で車線が増えた。21号の高速区間がはじまった。
夜の車の流れに乗っているとすぐに長良川が現れた。
目印のガソリンスタンドがよくわからなかったので近くと思われる交差点で脇にそれてタラ藤さんに再び電話をかけた。
指示されたとおりに走ると目の前の路上に自転車にまたがったタラ藤さんらしき人物がいた。
それは間違いなくタラ藤さんだった。
月明かりに照らされたタラ藤さんは以前会ったときよりも少しだけクエンティン化が進行しているように見えた。少しだけだ。
取り急ぎ誘導されるがままにタラ藤邸へ向かった。
タラ藤さんのペダリングは実にスムーズで無駄のない動きだった。

家の中に入るとタラ藤夫人と子息が私を迎えた。
子息は父の面影をわずかに残した活発そうな男の子だった。両親のことをママ・パパと呼ばないそれだけで好感が持てた。
とりとめもない話の後、私はシャワーを浴びた。靴下は濡れたブーツの中で革の色に染められていた。
シャワーを終えてお茶を飲みながらとりとめもない話その2をした。
タラ藤さんは前日まで旅行で北海道まで行っていたということだった。
何日か前にあらかじめ押しかけるかもしれないとは言ってあったもののいつになるのかなどは何も伝えていなかったのだが、それはつまり、もし訪問が1日早くなっていたら私は岐阜の夜空の下で体を震わせながら横になっていたのかもしれない、ということだった。
結果オーライ。何はともあれ私は屋根の下にいた。
寝場所は子息の部屋をあてがわれた。
広い部屋に置かれたベッドはそれだけで私の部屋の半分以上ありそうな代物だった。
10年後、このベッドの下には何が隠されることになるのだろうか。
そんなベッドの上に横になり目を閉じた。
これでやっと納豆号の上で過ごした長い一日が終わったのだった。
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by aohige_the_great | 2011-09-05 23:30 | 旅行記 | Trackback | Comments(3)
2011年 08月 30日
究極の陸送を見せてあげますよ 19号線の残酷な夜

ガソリンを入れた私は19号に戻った。
するとほぼ同時に何かが空から落ちてきた。雨粒だった。雨粒、雨粒、雨粒。
ここで私は非常に難しい選択を迫られたことになる。走るか、止まるか、であった。
雨はいつやむかわからないうえに徐々に勢いを増してきた。雨具などはもちろん持っていなかった。
とりあえず走り続けたのだが、どこにも止まって休めそうなところがなかった。
雨脚はどんどん強くなっていた。怖いか、怖くないか、怖かった。
横を走り抜けていく車は雨などお構いなしだった。その存在が近づくと邪魔にならないように減速しつつ路肩に逃げるのだが、微妙な路面の凸凹とライトに照らされた白線が私をいまにもどこかに吸い込んで行きそうだった。
ともあれ私に残された選択肢は「前に進む」これしかなかった。
止まったところでいつやむかわからない雨、どんどん暗くなる景色、奪われていく体温、状況はどんどん悪くなっているように思われた。
困ったことにヘルメットのシールドを外していた。運搬時に邪魔なのと暑くてたまらなそうだから、というのがその理由だったが外してきたことが悔やまれた。
救いがあるとすれば、おそらく雨雲と併走してるのではなくすれ違っているということだった。対向車線のバイクのライダーがレインスーツを着ていたことによる希望的観測ではあったが。
雨は一向に止まなかった。身体の前側に回していたウエストバッグの中身のことは考えないようにした。濡れたければ濡れればいい。ブーツの中はずぶ濡れになっていた。

そんな状況が1時間ほどつづいたのだろうか、あるいはもっと長かったのかもしれない、とにかく雨脚は次第に弱くなり、いつのまにか雨は上がっていた。私は賭けに勝った。たぶん。
雨が上がってすこしすると標識に瑞浪の文字が見えた。事故現場が近づいていた。
しかし寒さと時間にやられていた私にあの現場を確認する余裕はなかった。あっても見つからなかっただろうけど。
瑞浪を抜けると19号が2車線になった。悪夢のような木曽高速が幕を閉じたわけだ。
合羽を持っていなかったのは失敗だったのだろうか?失敗であったと同じくらい失敗ではなかったように思える。
濡れた、体温も奪われた、そういう点ではもちろん誰がなんと言おうと失敗だった。
ただ、もし持っていたとしても、止まってカバンから出して着て走ることで状況が少しでもよくなったとは思えないのだ。私のように普段から雨に濡れながら移動している人間には「合羽なんか着たところでどうせ濡れる」という一種の諦観のようなものがあった。
狭い空間で寝ること、ロクに飲み食いせずに移動し続けること(朝食からまだ何も食べていなかった)、どしゃぶりの雨の中合羽もなしに移動し続けること、すべては日常の延長だった。
非日常の中にある日常。もしかするとすべてはこの日のためにあったのかもしれない。

2車線区間は路面こそ濡れているものの特に問題はなかった。
一度脇道から確認もせずに出てきた軽自動車が目の前を横切っていったときはヘルメットの中で怒鳴り声が空しく響いた。
そのときはさすがに肝を冷やしたがそれ以外はいままで通りだった。CL50のプアなブレーキだからロックせずにすんだのかもしれない。必要十分というやつである。
途中でファストフードの店に寄って何か暖かいものでもという考えも浮かんだがやめておいた。止まるにはまだ早い。
そうこうしているうちに標識に国道21号線の文字が見えた。19号とはこれでおさらばだった。
今回も苦しめられたがこれで1勝1敗、星は五分に戻った。
21号に入って間もなく道の駅が見えた。暖かいものを飲むついでに自分がどのくらいの状態にあるのかの確認もしたかったので止まることにした。
缶入り飲料の自動販売機にHOTの商品は一つもなかった。カップ入りのココアがあったので仕方なくそれを選んだ。
夏だからといってHOTを一掃するのはHOTに対して失礼だと怒りがこみ上げてきた。Tシャツ、ズボン、ブーツ、グローブ、全部グチョグチョになっていた。
濡れたカバンから携帯電話を取り出して電話をかけた。時刻は10時半、全くもって迷惑極まりない電話だったと思う。


by aohige_the_great | 2011-08-30 23:39 | 旅行記 | Trackback | Comments(0)
2011年 08月 29日
究極の陸送を見せてあげますよ 挿話的なもの
時計の針を少し戻そう。
あれは6年か7年前の盆のころの話だ。
このときも夏の馬鹿馬鹿しい企画として遠征をすることになっていた。
目的地は今回通過した松本だった。
すでに触れたように、このときは松本にたどり着くことは出来ず、今回がはじめての松本となったのである。
そのときの計画は初日に自転車で京都から松本へ行き、そこでタラ藤さんとガーナ田さんと落ち合って松本で一泊したのち、乗鞍岳で自転車ヒルクライムをするというものだった。
この乗鞍ヒルクライムも初めて挑戦するつもりだった有名なイベントが、現地まで行っておきながら台風の影響で初の中止になるという憂き目に会っていた。
とにかく午前4時ごろに家を出た私は琵琶湖を越え、関が原を越え、木曽高速を走って松本に行くつもりだった。
このときはまだ国道19号線のその区間が木曽高速と呼ばれているとは知らなかった。今以上に無知だった。

足取りは快調そのものだった。
破滅的に道に迷うこともなく最初の6時間(走行時間)でおよそ180kmを走っていた。もっともこの数字はあとになってわかったことだが。
私の記憶に残っている最後の場所は19号の木曽高速区間に入る前、おそらく恵那市あたりのコンビニだった。
たしかここでアンパンと麦茶か何かを買ったと記憶している。
そこでプツリと記憶の糸が切れ、再び糸がつながるのは病院のベッドの上で自分が横になっているというところだ。
病院?ベッド?自転車は?ここは松本ですか?
私がいたのは木曽高速区間が始まって間もない瑞浪市の総合病院のベッドだった。
自転車はもちろん近くになく、着ていたのはジャージではなく患者用のガウンだった。
どこかが痛かったような気がするがどこも痛くなかったような気もする。
そのうちに看護婦やら事故の加害者やらが登場してだいたいのことが把握できた。そう、事故にあっていたのだ。
翌日(だったと思う)にはタラ藤・ガーナ田両氏が病室に訪れた。
テレビを見るためのカードが置いてあったが見なかったような気がする。どうせ見てもオリンピックくらいしかやってなかった。
そう、オリンピックが開催中だった。ということは2004年、いまから7年前のことだ。
時間的な区切りとして、オリンピックもたまには役に立つ。
3年前にその時乗っていたバイクで事故現場を見に行ったがはっきりとどこかはわからなかった。
このあたりだろうというところで手を合わせて帰途に着いた。

その病院に数日いたあと迎えに来た両親につれられて自宅から程近い病院に転院することになった。
このとき迎えに来た両親の「わざわざ来てやった」といった趣旨の発言が今に続く不仲の原因になるのだが、ここでは詳しくは触れない。
帰宅の前に現場検証と加害者宅によって自転車を引き取ったり相手の車を見たりしてから管轄の警察署で調書をとった。
現場から加害者の家はすぐだった。誰が言ったか知らないが、家に帰るまでが遠足なのだ。最後の最後まで油断は禁物。
車は運転席側のAピラーが凹んでガラスにひびが入っていた。
今になっても、われながらよく打ち身と切り傷だけで済んだと思わずにはいられない。切り傷は真っ二つに折れた自転車のフレームが刺さって出来たものと思われた。
転院してからは病室を抜け出して家でシャワーを浴びたりなんやをして適当に過ごした。
特に調べるところもないし、傷口が膿まないようにさえしていればよかった。
退院してからも色々交渉ごとなどがあるのだが、これも今回の陸送ツアーとは無関係なので触れないでおく。
とにかくこれが私の国道19号線、ならびに木曽高速の思い出である。
ひとつだけ残念なのは当時を思い返せる写真や画像が全く残っていないこと。
このあたりから私の何かを記録しようという悪癖が始まったのかもしれない。
あの日も暑い夏の一日だった。

by aohige_the_great | 2011-08-29 00:00 | 旅行記 | Trackback | Comments(3)
2011年 08月 27日
究極の陸送を見せてあげますよ 信州の平和な午後


本屋をあとにした私は三才山トンネルを目指した。
何番の道を走ればいいのかを調べてはいたがはっきりとは覚えていなかった。
標識に従って左折した。
嘘の標識があったら間違いなく騙されていただろう。
トンネルまでの道はいつも走っている国道162号線のような雰囲気だった。そういえば茂木へ向かう田舎道も似たようなものだったと思う。
田んぼと畑が多くて見通しがよくて信号が少ない。サイン会向けのレイアウトだ。
あっという間にトンネルの入り口まで来ていた。
バイクだから料金を払うのに時間がかかる。後ろの車に手を挙げて走り出した。
トンネルを抜けると長い下りだった。自転車だと気持ちよさそうだ。ここまで来れたらの話だが。


松本市内へ入った。
信州の中心地と言った感じのにぎわいだった。本当なら6年ぶりくらいの訪問になるはずなのだが、おそらく物心ついてからは初めての松本だった。このあたりについてはあとで触れることにする。
次に目指すのは国道19号線だった。おそらく今日最後の勝負所だ。
標識に19号の文字があったが本当にそちらへ行っても大丈夫なのか、自分にも周りの世界にも信頼が置けなかったのでコンビニに寄ってルートの確認と水分補給などをした。
小島よしおを信州風にした店員に道を確認すると果たしてその通りだった。
「これから混雑する時間なので気をつけてくださいね」ありがとう。近くにあったガムをポケットに入れた。

言われた通り松本市内を抜けるまではかなりの渋滞だった。
MTの車だったらイライラして車内で独り言ばかり言ってしまいそうな混みかただ。
初めての道でこういう状況はなにかと気を使うがそこは原付の取り回しが生きた。
原付気分で自転車に乗り、自転車感覚で原付に乗る私の最も得意とする状況だった。
それでも念には念を入れて安全運転に徹した。
難なく塩尻を通過すると勝負所がやってきた。国道19号線の通称「木曽高速」区間である。
長めのアップダウンが繰り返され、しかも周りの車がビュンビュン飛ばしていくという原付には少々タフな区間だった。
それでもちょっとモタツキ気味のトラックの後ろについたり道幅に余裕があるところではさっさと前に出たりを繰り返すと自然にペースがあがっていった。
納豆号は惚れ惚れするくらいいい走りをしていた。
奈良井あたりのトンネルを出たところで信号に引っ掛かったので小便をしておいた。
高速ラップを刻めるところでは必要以上に止まるのは避けたかった。
前回の給油から130kmほど経過したくらいから次の給油を考えねばならなかった。
しばらく走ってちょうど150kmくらいのところで見つけたガソリンスタンドに入ってガソリンを入れた。レシートによると18時30分。出発からおよそ11時間が経っていた。
山の中は日が暮れ、そろそろ本格的な夜が訪れようとしていた。


by aohige_the_great | 2011-08-27 02:58 | 旅行記 | Trackback | Comments(4)
2011年 08月 25日
究極の陸送を見せてあげますよ 2日目午後その2


少しばかりなだらかな坂を上って本格的な峠道が始まった。
ラルプデュエズのごとく、カーブごとに何番目のカーブなのかを知らせるプレートがあったが全部でいくつあるのか知らない私にはただの数字の羅列に過ぎなかった。
そんななかをしばらく登っていると「めがね橋」を知らせる標識が見えた。
さっきの役場でそういうのがありますよとだけ聞いていたので立ち止まって撮影することにした。
少し先に駐車場もあってその一帯だけが観光地化されていた。茶屋はなかった。
カバンからDP1を取り出していざ撮影と思った瞬間、なにかが落ちる音がした。気にせず撮影したがなにかが足りないような気がした。
手元を見るとレンズのキャップがなかった。周囲を見回すと路肩の雑草の葉の上にキャップがあった。
うまく手を伸ばせば取れそうにも思えたし、ちょっと雑草を動かすと落ちそうにも思えた。もちろん手が滑って自分が落ちることも考えられた。
そっと雑草を引き上げて手を目一杯伸ばしてなんとかキャップに指が届いた。ミッション成功、報酬はなし、である。
引き続き峠の向こうを目指した。
細かいカーブが連続するためにどうしても車に追いつくことになった。
そのたびに車に道を譲ってもらうことになりヘルメットの中の私は恐縮しっぱなしだった。
どうでもいい話だが、ラルプデュエズはカーブの数21に対し距離はおよそ15km、一方の碓氷峠はカーブ数184に対し距離はおよそ13kmである。
納豆号は低速よりのギア比かつ4サイクルエンジンということもあり、低速でコーナーを抜けてもスロットルを捻ればスパッと小気味よく反応してくれる。
これはなれない峠道を走る上で非常に有効だった。
それでも1度左コーナーで勢い余って前輪があっちのほうへ飛んでいきそうだったがこれは乗り手の問題だ。
もしここを2サイクルで高速よりのギア比になっている排ガス号で走ったらと思うとぞっとした。
1速に固定してバリバリとうるさい音を立て続けながら走るか小刻みなシフトチェンジで頭の中が混乱するか、2速か3速でトロトロ走るか、どれも地獄である。
4サイクルも捨てたもんじゃない。
途中で何台か坂を登る自転車もいた。
羨ましくもあり、よくやるよという呆れもあったが自転車については考えないことにした。



気がつくと峠を越えて長野県に突入していた。軽井沢。軽井沢である。
それまでの栃木・群馬・埼玉(とヨルダン川西岸)の道がまるで別の世界のことであるかのように軽井沢は人と車で混雑していた。
ここが人気の観光スポットだったのはバブルのころまでだと思っていたがこれはおそらく清里と勘違いしていたのだろう。そんなことはどうでもよかったけど。
とにかく軽井沢には車が多かった。新幹線の駅もあるようだが車のほうがなにかと便利なのだろう。
日本有数の避暑地として知られるにしては日差しが強く非常に暑かった。車も多いので気分的にもとても涼しいとは思えなかった。
ここで一服しようと目に付いたスーパーに立ち寄った。
観光地にありがちな搾取的価格設定なのかと思ったが全体的に普通の値段だった。
野菜や果物などはもしかすると私の地元よりも安くて新鮮かもしれない。すくなくともこのあたりでは生のままたべられるトウモロコシなんて見たことが無い。
コーヒーと腹が減ったときのためのアンパンを買ってそとのベンチで一服させてもらおうとしたが生憎灰皿らしきものが見当たらなかった。
場所が場所だけに屋外喫煙が禁止されているのかもしれないと思いそのまま何もせず立ち去った。
罰金でもとられようものならたまったもんじゃない。
駐車場に敷き詰められた自動車と渋滞している道路を見るのが嫌だったのもあった。
軽井沢を抜けて坂を下っていったところに本屋があったので地図のチェックと一服をかねて止まることにした。
次なる目的地である松本と国道19号線は三才山トンネルを抜けるとすぐそこだというのがわかった。
ここまでで多大なる遠回りをしていたのであとのことを考えると有料でも通過するしかなかった。
ついでなので立小便もしておいた。
時間はおそらく午後3時半。天気は快晴。雨の気配はまったくといっていいほどなく、あとはどこまで進めるか、だった。まだ空腹感は訪れていなかった。

by aohige_the_great | 2011-08-25 00:13 | 旅行記 | Trackback | Comments(3)
2011年 08月 24日
究極の陸送を見せてあげますよ 2日目午後

地図によるとコンビニの前を走る17号と交差している道が県道45号線で、それを西に走るとそのうちに17号と合流できそうだった。
その県道が群馬のものなのか埼玉のものなのかどちらのものでもないのかすらまだよく理解できていなかった。
前日にポロ沼さんと冗談と皮肉交じりに関東人における鳥取と島根の理解度は関西人における群馬と栃木のそれとなんら変わりないなどと言っていたのだが、自称関西人の私自身もよくわかっていなかった。
埼玉がそこに入ると状況はさらに錯綜した。
そもそも群馬の真南に埼玉があるというのが実感としてうまく把握できていなかった。
よくよく考えるとそれは間違いようのない事実なのだが、このときの私の理解では群馬の南になにか空白地帯のようなものがあってその南に埼玉があるといった具合だ。
この空白地帯のことを仮に「心のヨルダン川西岸」と呼ぶことにする。
45号線を走ってその地帯を抜けると17号に合流できると信じて私は走り出した。
しかし標識を見ても一向に17の文字は現れなかった。
時間がたつに連れ心のヨルダン川西岸を走っているかどうかさえ自信がなくなっていった。
時折現れる地名表示に「彩の国」となければ埼玉だとはわからなかっただろう。
いつの間にか私は国道254号線にいた。17号は消えてしまったのだろうか。


当然のように254号も私を悩ませた。当初は予定に組み込まれていなかった道なのだから当然といえば当然だ。
本庄というところへ向かえばいいというのはなんとなく覚えていたのだが、その先にある富岡の2文字が問題だった。
富国強兵殖産興業の富岡製糸場でおなじみの富岡である。
このときの私は富岡はもっと北のほうにあると思い込んでいた。群馬か栃木かそれ以外のところなのかはわからないがとにかく北のほうだと。
おそらく同じ明治時代の出来事で有名な足尾銅山と混同していたため山奥のイメージがあったのだろう。
しかし実際には足尾銅山は栃木の一番西、群馬との県境にあった。栃木も群馬もなにもわかっていなかった。
地図を求めてコンビニに入り、富岡の位置が理解できた。とりあえず方角的に間違ってはいないようだった。
心のヨルダン川西岸とはそろそろお別れできそうだった。
富岡を抜けて川を渡ると松井田というところが現れて国道18号線に入れそうだった。やっと18号線だ。17号はどこへいったのだろうか。
川を渡る少し前に交差点があって前方に変わった形の山があった。
あれがおそらく妙義山だろうというのとこのまま直進するとまた道を間違えることになるというのが直感的にわかった。
ともあれせっかくなので写真をとることにした。おちつくことも時には必要なのだ。
交差点の傍らに古いマウンテンバイクがあり、その横にほっそりとした若い男性が座り込んでいた。男性の手元には吐しゃ物と思しき物が撒かれていた。
おそらく暑さとなれない運動で身体が音を上げたのだろう。
古いマウンテンバイクと疲れ果てた様子の若者の組み合わせは私に10年ほど前のことを思い出させた。
あのときは吐しゃ物こそなかったが若者は相当に疲れ果てていた。いまは確か三重にいるはずだがまあそれはどうでもよい。
撮影のあと道を折れて少し走るとそろそろ18号に出れそうだったが川を渡る際にグネグネと曲がらされたので自分がどの方角を向いているのかわからなくなった。
頭の中の羅針盤は完全に崩壊していた。初めからそういうのがあれば、の話だが。
ちょうど町役場があったので道をたずねてやっとの思いで18号に入ることが出来た。

最初の給油からおよそ130km、このあとに控える碓氷峠の途中でガソリンがなくなるのは笑い話にしかならないので宿場町でこの日2度目の給油と小便をした。
時刻は午後2時、出発からおよそ7時間が経過していた。空腹感はいまだに全く無かった。
納豆号に問題らしい問題がないのだけが救いだった。
走りに関してはパーフェクト。完璧だった。

by aohige_the_great | 2011-08-24 22:28 | 旅行記 | Trackback | Comments(0)
2011年 08月 22日
究極の陸送を見せてあげますよ 2日目午前


出発の朝が来た。
6時過ぎに目が覚めて外を見るとすでに昼の暑さが思いやられるような日差しだった。
席についてポロ沼さんと話をしていると夫人が朝食を運んできた。
ごはん、味噌汁、目玉焼き、焼いたハム、付け合せの野菜、フルーツ、ヨーグルト、そして納豆。納豆。小粒だがしっかりと芯のある納豆だった。イバラキッシュ・フルブレックファストといったところだろうか。
普段は時間がないのともったいないので朝飯を食おうとは思いもしないが今日は別だ。いつ次の食事になるかわからないし、もしかしたら飲まず食わずになるかもしれない。食べられるときに食べる、これが旅行中の鉄則なのだ。
茨城で食べる納豆はいつもと少し違う味がした。気のせいだ。
外に出て荷物を納豆号の荷台にくくりつけて(もらって)出発した。何もわからないのでとりあえずポロ沼さんのあとを追いかけた。
しばらく走るといきなり前方の道が封鎖されていた。地震の影響だろうか。
もともとそこを通過するつもりだったようで初っ端から遠回りを余儀なくされてしまった。
もうすぐ水戸市から抜けるくらいのところにあるドライブインでポロ沼さんとお別れした。ここからは文字通り孤独な戦いが始まる。
前夜(もしかすると当日の朝だったかもしれない)にたてた計画では国道50号線を群馬方面に走っていって前橋で国道17号線に入ってそこから18号線へ、そして18号線で碓氷峠を越えて軽井沢から長野に突入することになっていた。



この日走り始めて130kmくらい、オドメーターが10000kmを越えたところで1度目の給油を行った。
ガソリンスタンドには見慣れた名前の運送会社のトラックが止まっていた。遠く離れた場所で故郷のナンバーをつけた車を見るとなぜかほっとする。たぶん特に意味はない。
納豆号は何事もなくボロボロという音を吐き出しながら快調に走り続けた。
日差しは厳しいが自ら発熱する自転車と違い常に空冷状態で走ることが出来るバイクだとほとんど暑さは感じられなかった。
初めて走る道だからどこでサイン会をしていたりVFR1000やCB1300SFにかつ上げされたりするかわからないために慎重な運転をせざるを得ないにもかかわらず、スタートから給油までの時間はおよそ3時間だった。
その後も50号線をひた走り、標識に17号の表示が出たところで50号とはさよならをした。これが間違いだと気付いたのはだいぶあとのことだった。
なにも気にせず17号線だと思っていた道を走り続けた。もっとも、17号であることは間違っていなかったわけだが。
とにかく、バイパス状になっていることもあって移動自体は速かった。
標識には上武道路とあり、行き先を見ると東京○○km、熊谷○○kmとなっていた。
東京への距離がどんどん短くなっていることに一抹の不安を覚えたが走っているのが17号であることだけは間違いなかった。
そうこうしているうちに利根川を跨ぐ橋を渡った。利根川?
ちょうど橋の向こう側(それがどの方角かすらわからなくなっていた)にコンビニエンスストアがあったのでこの日初めての休憩と小便と地図のチェックをするために立ち寄ることにした。
このあとも地図のチェック・小便・休憩・水分補給のいずれか2つ以上をするために普段はほとんど使わないコンビニを利用することになる。
地図によると17号は熊谷あたりで2手に別れていて、伊勢崎を経由して前橋に行くルートと高崎を経由して前橋に行くルートがあるようだった。
私が通るべき道は前橋から高崎に向かう17号で、実際に走っていたのは伊勢崎から熊谷に向かう17号だった。
利根川を越えることで来る必要のない埼玉にまで足を踏み入れていた。
ここから18号へ戻るには今来た道を引き返して50号→17号かこのまま西に進んで高崎に向かう17号に入るかのどちらかだった。
さすがに戻るのは気が引けたので西に進むことにした。
これが出発からおよそ4時間半後、正午前のことだった。空腹感は全くといっていいほど無かった。
そして結局二度と17号の青いおにぎりを見ることは無かった。

by aohige_the_great | 2011-08-22 23:51 | 旅行記 | Trackback | Comments(4)